「生きる力を育てる。」
現在の学校教育では、この言葉を耳にする機会が多い。知識だけでなく、自ら考え、判断し、行動できる力を育てるという考え方であり、AIの発展や社会の変化が激しい現代において、その理念はますます重要になっている。私もこの理念には賛成である。
しかし、教職課程で教育について学ぶ中で、一つの疑問を持った。
「生きる力の育成は、最終的にどこへ着地するのだろうか。」
私は「生きる力」を、「生きるために必要な考え方」だと解釈している。目的を考え、そのために必要なことを考え、行動する。そのような考え方を子どもが身につけることが、生きる力を育てるということの一つだと考えている。
私は高校理科の教員免許を持っているが、教壇に立った経験はない。現場の先生方の工夫や苦労を十分に理解しているとは言えないため、この記事は現場への批判ではなく、学生だった頃の実感と、教育を学んだ一人として抱いた疑問、そして一つの提案を書いたものである。
教科には着地点があるが、「生きる力」の着地点は見えなかった
理科であれば、小学校では自然現象に触れ、観察や実験を通して興味を持つ。中学校では、その現象を法則として理解する。高校では、より高度な理論や数式を用いて説明できるようになる。数学や英語も同じである。教科には、何を身につけるために学ぶのかという着地点があり、学年とともにそこへ積み上がっていく。
では、「生きる力」はどうだろう。学校では、探究学習や総合的な学習の時間、キャリア教育などを通して、生きる力を育てようとしていた。しかし学ぶ側だった私には、それらの活動が最終的に何を身につけるためのものなのかは、共有されていなかったように思う。やることは用意されていて、それをやる。しかし、やったことがどんな考え方に落とし込まれ、次の学年にどうつながるのかは見えなかった。
生きる力は抽象的なので、教科のように着地点を示すのは難しい。それでも、抽象的だからこそ、活動を「やること」で終わらせず、着地点を言葉にして共有する工夫が必要になる。
「夢を書きましょう」の授業が苦手だった
この「着地点の見えなさ」を最も強く感じたのが、小学校で行われた「将来の夢を書きましょう」という授業だった。
私はこの授業が苦手だった。夢がなかったのではない。将来が分からなかったのである。その場では「学校の先生」と書いたが、本当に目指したい職業ではなく、求められている答えを書いただけだった。夢を書くことが授業の目的になっていて、何のために書くのかは分からないままだった。
夢を持つこと自体は悪いことではない。夢があれば努力する理由が明確になり、行動しやすくなる。夢教育そのものを否定したいわけではない。
私が引っかかったのは、授業のやり方である。夢を持っていることが前提になっていると、夢を持てない子は、そこから先へ進めなくなる。授業が本当に伝えたいことは、夢の有無とは別のところにあるはずなのに、「夢を書く」というやり方でつまずいてしまう。これは非常にもったいない。
さらに、夢を書いた先に何があるのかも示されなかった。着地点が分かっていれば、夢は今の仮の答えとして置いておき、先へ進むこともできただろう。ただし、これは大人になった今だから言えることで、小学生にそれを求めるのは難しい。そのため、着地点を示すのは子どもではなく、授業の側の役割だと思う。
夢の授業に着地点を添えるなら
子どもは皆同じではない。夢がある子もいれば、まだ夢はないけれど興味がたくさんある子もいる。夢は一つに絞られやすいが、興味はいくつあってもよい。ゲームも宇宙もスポーツも音楽も好き、という複数の興味が重なって、将来の仕事につながることもある。入口が夢でも興味でも、その先で身につけてほしいことは同じである。
もし私が授業を考えるなら、「夢を書いて終わり」にはしない。まず「将来こうなりたい」を書いてもらう。夢でも、興味でも、今の仮の答えでもいい。次に「そうなるためには、何が必要だろう」と問いかける。勉強や練習かもしれないし、人との出会いや健康かもしれない。最後に、授業の着地点を子どもに伝える。
「今日の授業は、夢を書くためだけのものではありません。ゲームを買いたい、旅行へ行きたい、テストで良い点を取りたい。どれも、目的を決めて、そのために必要なことを考えれば、同じように動き出せます。今日はその練習でした。」
目的を考え、そのために必要なことを考え、行動する。夢という一つのやることを、人生のあらゆる場面で使える考え方に落とし込む。これが、私の考える着地点である。
提案:「やること」で終わらせず、着地点を共有する
ただし、考え方を教えるのは簡単ではない。教科の知識と違って抽象的で、教え方にも子どもの理解にも差が出る。一度の授業で身につくものでもない。私が提案したいのは、生きる力の中身を変えることではなく、各活動の着地点を汎用的な考え方として言葉にし、子どもと共有することである。
キャリア教育には、すでに「基礎的・汎用的能力」という整理があり、キャリア・パスポートもある。枠組みがないと言いたいわけではない。私が気になるのは、活動すること自体が目的になっていないか、そしてその活動が何を身につけるためのものなのかが、子ども自身に見えているかどうかである。私はこうした取り組みを経験していないので、実際にどう受け止められているかは、現場の声を知りたいところである。
着地点が共有されると、子どもは「なぜ今これを学ぶのか」を自分で理解できるようになる。目的が分かって取り組む学びと、分からないまま取り組む学びでは、受け止め方は大きく変わるはずだ。
さらに、その考え方が学年とともにどう深まるのかを示せば、成長の道筋も見えてくる。例えば次のようになる。
小学校では、目的と、そのために必要なことを考える。先ほどの「将来こうなりたい」の授業がこの段階にあたる。
中学校では、目的に向かう方法を複数考え、比較して自分で選ぶ。例えば、定期テストに向けた勉強の進め方をいくつか挙げ、自分に合うものを選ぶ。
高校では、長期的な計画を立て、状況に応じて見直す。例えば、進路に向けた数年単位の計画を立て、模試や学校生活の結果を見ながら修正する。
これはあくまで一例である。大切なのは内容よりも、活動を「やること」で終わらせず、その着地点を子どもと共有することだと思う。
おわりに
教育の目的は、正解を教えることだけではない。変化する社会の中で、自分で考え、選び、行動できる人を育てることでもある。その理念に共感しているからこそ、「生きる力」を理念だけで終わらせず、一つひとつの活動がどんな考え方に着地するのかを、子どもにも大人にも見えるようにしたい。
皆さんは、どのような「生きる力」の道筋をどう思い描きますか。教育に携わっている方も、そうでない方も、ご意見をいただけるとうれしいです。
